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善徳寺の周辺の道路が拡幅されるため、平成7年に発掘調査が進められた。

出土遺物は近世のものが全てで、しかも城端の町は、江戸時代に町割りが行われた痕跡を示していた。そしてまた、城端が寺内町で善徳寺が城郭寺院であることを立証することもできなかった。

寺内町の実例として、今井や富田林とともに、北陸では井波や城端が取り上げられる。

しかし、本当に城端に善徳寺寺内町があったのだろうか。

平成9年、12月7日に、この拙稿をまとめるために寺院を訪れた。

寺は冬ごもりの準備に追われていた。この日以来、また数度善徳寺を訪れ、なぜここに善徳寺が建立され、城端の町はどのように移り変わってきたのか、寺の人たちや町の人に聞き取り、町並みを見学しいろいろ考えた。



曳き山会館に保存される江戸期の町並みの絵図から、現在の町並みが江戸時代からほとんど変わらないこと。

そして善徳寺が創建以来、戦災を受けず歴史をそのまま見つめていること。

等から、各地の町並みの事例を実見して比較した。秋田県角館を訪れて、新しい町を創り出すときは誰でも法則性のある町並みを整えることを知ったが、今井町では、古い町の外側に新しい町が出来ると街路が屈曲することを知った。

これは、現代でも住宅造成地に発生している。町田市で鎌倉街道を追っていると、鎌倉街道は一本ではなく、その横に併走している鎌倉街道があることを知った。これは発掘調査報告もされている。

善徳寺には明治の終わり頃、大谷貞子という「お姫さま」がいた。

この事実を知ったのは、平成7年の夏、善徳寺の虫干し法要のときで、御殿にその調度品があった。「お姫さま」という言葉が自然と出てきても、善徳寺には全く違和感がない。

 


(写真上)
盤持ち用の石。現在は俵だという。


(写真上)
歴代の大関・横綱の名札。
毎年、7月22日〜28日の日曜日に開催

明治の文明開化に始まり、そして昭和30年代以降、日本は急激な成長を遂げ、世界をリードする先進国に生まれ変わった。

その結果、日本中同じスタイルのコンビニエンスストアが溢れ、古来から伝承してきた日本の民俗文化にその歪みが生じている。しかし、ここに来ると、時間が一気に数百年タイムスリップする。

それは、善徳寺の参道から眺める山門の偉容だけではない。

善徳寺の中に私たちが入って、ようやくそれを体感できる。

平成13年5月12日、城端善徳寺を訪れた。朝、境内を清掃している婦人が目を引いた。

そこへ訪れた人の会話に「そりゃ極楽な」という言葉が何度か聞こえた。この言葉、私が幼い頃聞いた記憶がある。

ここは別世界である。



本堂に上がると読経が聞こえた。

椅子が並べてあり、そこに子供が4人、僧侶と一緒になって経を唱えていた。
恐らく、数十年前には、日本の至る所でこのような風景が広がっていたのだと思う。

善徳寺の維持管理には莫大な経費が必要だと聞くが、境内や建造物は貴重な文化財であり、ぜひこのままの姿で後世まで伝えてもらいたいと願う。

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