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五 箇 山 史 雑 記 五箇山とは 富山県の上平、平、利賀三村の地域を総称して五箇山(ごかやま)と呼んでいる。平成の大合併で、南砺市となった。 五箇山は県西部を流れる庄川の上流域にあたり、険阻な谷筋が続く。そこに赤尾谷、上梨谷、下梨谷、小谷、利賀谷の五つの谷間に七〇ヶ村の集落があり、この「五ケ谷間」を音読みして 「ごかやま」と呼ぶようになったという。 またここは平(たいら)とも称されていて、これが五箇山の平村の命名理由となったと聞いたが、それは五箇山各地の平家の落人伝説に由来するという。 確かに、私が訪れた下梨の北名家や下島高桑家も先祖は平家の落人であったと聞いた。しかしそれを裏付ける史料は無いようだ。 平家落人伝説の地は、九州、四国を中心として全国に百ヶ所ばかりあると言われている。平家落人伝説が伝えられるのは、隠れ里と呼ばれるような山深い地域で、源氏の追手を逃れてひっそり住んだのだという。 五箇山は合掌造り集落が世界遺産に登録され、高速道路も開通し観光客でにぎわっているが、訪れる多くの人に聞いて見ると五箇山の隠れ里という隔絶したイメージが強い。 しかしそれは本当はどうだったのだろう。 柳田国男は明治四二年六月に五箇山を通った。彼はその著「北国紀行」に「赤尾は町といえどもやはり淋しい在所なり。ただ畑の麦の出来はよく、田も少しは多し。」と残している。 江戸時代の五箇山の石高は、正保三年「五ヶ山高物成田畠帳並びに高付帳」では、70ヶ村合計で5836石。 五箇山の戸数は、享保17年(1732)では、1003戸、しかし、同19年(1734四)では、917戸に減少、幕末の慶応2年(1866)では1296戸と増減した。人口は、同年で9832名であった。享保19年に、戸数、人口が減少した理由は凶作だったことが当時の記録から伺える。 文化10年(1813)の江戸時代の記録では、「春は雪遅く消え、秋は雪霜早く降り、諸作物実りかね、稲作は累年実り申さず」とあり、凶作の年は、「飢饉、谷中百姓共、過半飢死申」とあり、五箇山住民の多くが餓死したという。 人ひとり一石の米を消費するとされる。山地には人口を賄うだけの水田は無く、山の斜面を「ナギ」と呼んだ焼畑でソバやヒエ、アワ、キビ等の作物を耕作した。 幕末の人口から計算すると五箇山での食糧自給率は換算すると60%で、不足する米は城端から搬入された。日当たりの良い斜面は桑畑となった。加賀藩には年貢の多くは塩硝で納められた。 旧上平村の世帯数を見ると、明治28年には405戸あったのが明治34年には311戸まで急減している。これは旧平村でも同様で、実は村民の多くが北海道に移住したのである。 これは開拓地が与えられる屯田兵制度という明治政府の方針もあったが、北海道に移住しなければならなくなった理由には、五箇山の主要製品であった塩硝が、明治三年に加賀藩から買い上げ中止となったこと等、加賀藩に支えられ安定していた五箇山の産業構造が急変したことが背景にある。 明治に入って、五箇山では農地の開墾等が行われたが、山間部の耕地は限られ、米を自給することはできない。急激な環境変化には山村が対応できずそのため貧困に喘いだが、かつ山間地と平地との生産物の収支が合わないことが大きな原因であった。 そして更に人口の減少が進み、かつての平、上平、利賀を併せて、2000年では旧三村の人口は3400人を下回っているようだ。しかし、江戸時代にこのような食料自給率の悪い五箇山になぜ一万人近い人々が暮らしたのだろうか。 山村は貧しく貧困に喘いだというが、各村々には真宗の道場が開かれ、本当は実は豊かだったのではないだろうか、という疑問を持った。
五箇山と城端 井波瑞泉寺や城端善徳寺の敷地や伽藍は、我国でも私が知る限り、実に壮大空前の大寺院である。城端善徳寺は創建時には実に質素な寺院であったが、江戸時代に、大規模に建て替えられた。 これらの伽藍が造営された背景には、城端には大きな絹の生産工場があって繁栄し、その原料は五箇山からの生糸がもたらした結果であるということを忘れてはならないと思う。 この生糸は戦国時代の天文年間にはすでに生産され、本願寺にも寄進されていたのである。 元禄六年の記録、「城端品々帳」によれば、町の総戸数689戸の内、絹に関係した生業を営むのは375戸に及んだ。これらの絹屋には603名もの下男・下女が奉公し、まさに城端の町は絹を生産する工場群であった。 現在も城端には絹織物工場が操業しているが、五箇山は、井波・城端の「判方商人」達との密接な関係があった。それは、五箇山の人々が特に冬季間生活する物資の調達を井波・城端商人達に依頼し、その返済代金は生糸や和紙を当てた。 その利息は月一分七厘で、期間は冬季の12月に貸し付け、春に返済した。しかしこれは、例えば城端商人から見れば安い利息だと思う。 多分商人達も、五箇山に納入する物資調達のために必要な越冬物資を借金して調達したと思うが、これは冬季間交通が途絶える五箇山から生糸等、安定的に原材上は男料の供給を受けるための手段であったと考える。 城端に「つごもり大市」が毎年2月末日に開かれるが、それは春が近づくこの時期に、五箇山から年始もかねてやってくる人々をもてなし市を立てたのが由来である。 絹は城端に莫大な利益をもたらした。城端の絹織物の祖は、大鋸屋に居館を構えた南朝の落人、畑時能の末、畑掃部であったと伝える。城端水月庵天満宮の伝承では、城端に絹織が始まったのは天正5年という。この頃、城端は善徳寺を中心として町並みが揃い経済的に活況を呈し始めていた。 掃部は天正の頃城端に出たとされ、城端品々帳では初期の絹屋は大鋸屋村からの出身で天正五年に善徳寺寺内町に移った。 この天正五年というのはたいへん意味合いの大きな年である。この年、織田信長が前年安土城に移り、同年六月に安土を楽座とした。上方の本願寺と深いつながりのある城端や五箇山ではこのような情報はたちどころに伝わっただろう。 戦国時代には、天文年間の鉄砲伝来と時を合わせるように塩硝の生産が始められている。この塩硝の生産の経緯については良く判っていない。 当時としては最新兵器であった鉄砲の塩硝製法が当時すでに五箇山にあったことは、この五箇山とはいったいどのようなところだったのだろうかと思うと、実に不思議な地域であるように思える。 この塩硝は戦国時代石山合戦において、五箇山から本願寺に送られていたことは良く知られている。慶長10年には、前田利家が塩硝を受け取っている。しかし、なぜ五箇山にそのような技術が伝来されたのか。あるいはすでになぜあったのかそれについては誰も知らない。
合掌造り 五箇山の家屋の特徴は、急斜面の屋根勾配を持った切妻で、その内部は、三層から四層に別れる。上層部では蚕を飼い、一階では塩硝を生産し、五箇山の合掌造りは一つの家内工業の形態を成していたといえる。これは五箇山には大家族制度というこの地方独特の特殊な婚姻関係とも深い関係があると思う。 大家族制度とは家の長男が唯一婚姻して嫁をもらうことができ、弟姉妹は結婚できなかった。しかし実際には結婚していなくても伴侶が居て子供が生まれた。兄弟は分家することなく、子供は母方の家で育った。分家制度が無かったので家は一族そのものであった。 大家族制度の時代、大きな合掌造りの家には数十人というたいへん多くの家族が暮らしたと言う。これは、五箇山から白川郷にかけての特徴で、合掌造の家構造の分布とも相関している。 江戸時代は口留番所で通行が制限されたが、それ以前は自由に往来できた。このことから考えて、合掌造りや大家族制度は中世にはすでにあったと思われる。 山間部の雪深く低い生産性を考えると、生き抜くために、分家して戸数を増やすことがないという決まりがあって、一軒の合掌造りの家が中心として考えられていたのであろう。しかし、家内工業が営まれたと考えると、一軒の家で生まれた子供が母方の家で育つというのは、たとえば蚕を育てるのは母性愛であり、高い生産性を挙げるために必然的に生まれた現象のようにも思える。 五箇山には古い墓地は見当たらない。西赤尾で伺ったご婦人によれば、先祖の墓地は家の周囲にあり集団墓地を営む風習がこの地域には無いそうだ。 恐らく分家制度というのは、江戸時代以前からの、この地方の風習であろうと思った。したがって墓は家に一個しかないのだろう。合掌造りの由来は良く判らないが、これが平家の落人が暮らして行けた所以であったと感じた。
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