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血染めの名号

石山合戦と五箇山

 石山合戦の折にも白川郷から門徒衆が参陣したという。『荘川村』によれば、本願寺は天正五年、飛騨に願智坊を遣わして門徒坊主衆の参陣を促した。大坂石山合戦には、中野の照蓮寺善了は加勢のため、白川郷中屈強の男80余人を従えて大坂に上り、天正八年帰郷したという。

五箇山の漆谷には漆谷念仏道場があり、「血染めの名号」が伝わる。その由来は、大坂に参陣する五箇山十日講の一行六十三名が道場に立ち寄り、二度と帰参は叶わぬ決意を血判して出陣したのだという。大坂石山合戦に加わった人々は、漆谷道場の坊守からは六十数名と伺った。

<血染めの名号・道場旧跡からの遠望>

この名号に血判を押した人々については、どこの誰がそのようにして集まってどこに向かったか、その由来については全く不詳である。

五箇山各地から集まったとも聞き取ったが、下嶋での聞き取りでは、ここに白川郷から石山合戦に参加する人々が、ここで宿泊するために立ち寄ったのだという。とすれば、光曜山照蓮寺門徒衆であろうか。ところで、ここに六〇名を超える人々が寄ったのには理由があるはずである。

考えられるのは、有力な指導者が漆谷にあって石山合戦に参加する人々を馳走したのではないかということである。

ここには、かつて川原にあった漆谷集落から斜面を登るように西赤尾に至る往来が通じ高桑屋敷は往来に面していた。その東側の台地にはかつて血判を押したかつての坊跡がある。

しかし現在は耕地として残る敷地から見て、かつての道場は十坪も無かったであろう。実に狭いと感じた。とてもここには六〇名は入れない。恐らくは高桑屋敷に一夜の宿を求めたのであろう。

石山合戦の歴史を伝える道場は、今から約三百年前に北側下平坦地の現在の地に移され、そのとき植樹されたという杉が大きく育っている

これに関連して、『善徳寺史』には「空勝は之よりその先六十三寺と連署血判して「真俗ともに御馳走」申すと教如さまに誓詞を送って忠誠を表明している」とある。

石山合戦の経緯は、元亀元年九月、本願寺光佐は、織田信長と離反、諸国の門徒に檄文を送って大坂石山本願寺に篭ったことに始まる。本願寺には全国から門徒が馳せ参じた。五箇山からは塩硝が送られた。

九州は豊前国今井、現在の行橋市今井町に浄喜寺という寺がある。たいへん大きい本堂を構える寺院で、この寺は当時、仲津を治めていた村上良成が蓮如上人に帰依し、明応四年出家し開山した寺院であるいう。

それから三世、良慶は檄文に応じて石山合戦に出陣したが、西国の真宗門徒は本願寺を支援し、海路から本願寺への支援ルートが開かれていた。越中からもかなりの寺院門徒衆が参陣した。

城端善徳寺六世空勝は、門徒を率いて大坂に出陣し戦功を挙げ、教如から賜ったという軍配が善徳寺に伝来する。出陣した五箇山衆も加賀から西回りに海上ルートを頼ったと考えられる。

例えば富山県上市町郷柿沢に西養寺がある。寺の由来には椎名康胤七男、椎名兵部が石山合戦に家臣三百を引き連れて参陣し、五名のみが大坂より生還した。途中、篠原という地でご本尊を得、西養寺と改名したという伝承を伝える。この時上杉謙信は椎名康胤の絶滅する決意を伝え、天正元年には松倉城を攻め落し、椎名家の存亡がかかっている時期であった。

椎名氏にはとても大坂に出陣できる余裕が無いと思うのだが、この当時の状況は、現代の私たちが考える社会通念では理解し得ないものがあるように思える。