▼城端善徳寺の建造物
▼大納言の間
▼本願寺の伽藍配置
城端善徳寺の建造物
善徳寺は江戸時代に北側に広く拡張され、本堂以外に御殿、庫裏が連なり、実に壮大である。
現在は、建物は29棟、1672坪であると聞いた。
その中には、天正10年(1588)、3月下旬、本願寺教如が五箇山を経て善徳寺に十日間逗留し、石山合戦を振り返り感涙に咽んだ部屋も、今なお現存するという。
善徳寺が発刊した『教如上人と空勝僧都』には、「宝暦年間城端御坊全景図」と、「文久年間城端御坊全景図」が所載されている。
この絵図は善徳寺の建造物を忠実に写実しており、江戸中期以降約百年間での善徳寺の移り変わりを知る手がかりとなる。
CLICK→ 宝暦年間城端御坊全景図
善徳寺には現在、風格の違う三つの門がある。
このうち参道正面にあるのが大門で、二階造りの二重門である。現在の大門は、寛政12年(1800)に鍬初めを行い、九年の歳月を経て、文化6年(1809)に上棟式を行った。
城端の町のシンボルでもある。
ところが、宝暦年間の絵図には同様の二重門が描かれている。
現在の大門は、彫刻装飾を施しているが、文久年間の絵図にはこの装飾が描かれているのに、宝暦年間の絵図にはこの装飾が描かれず、また、左右の階段も描かれていないので、以前よりあった二重門が建て替えられたことがわかる。
CLICK→ 文久年間城端御坊全景図
中央の勅使門は、嘉永3年(1851)の上棟式とある。また宝暦年間には、現在の長屋門ではなく薬医門が設けられていた。
宝暦年間の絵図をよく観察すると、この門が、現在の位置より庫裏側に設けられ、城郭の虎口を連想させる横矢の効いた枡形で構成されている。
このことから、善徳寺は、東側・北側を埋め立てながら石垣を組み上げ現在の境内となって行ったことがわかる。
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創建以来の善徳寺の歴史を知るのがこの松の木である。文久年間の絵図に描かれている松は、宝暦年間には、2本あったことが判る。
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善徳寺宝物館には、今一つ、初期の善徳寺を描いた絵図がある。
この絵図には、万福寺の山門を正面に、また太鼓堂を中央に描いていることから、初期の善徳寺を描いたものである。ところが、宝暦年間絵図と対比させてみると、かなりの食い違いが見られる。
たとえば、蓮師堂が描かれていないこと等、後世に創建期の善徳寺を想像して描いた図のようである。
本堂の正面は二重門ではなく薬医門が構えられている。そして境内の北東側には堀が描かれている。
砺波市苗加にある万福寺には、荒木大膳の城端城の城門で、かつ善徳寺の山門が伝わる。
この風格ある万福寺山門は、説明版によれば、寛政12年に善徳寺大門を造営するため、翌13年に万福寺に譲られたものである。
この山門は、肘木の構造から寺社建築の様式であり、城郭建築の城門の建築構造とは明らかに異なる。
この山門が建てられていたのはどこであろうか。
宝暦年間の絵図と、文久年間の絵図を対比させると、宝暦年間の絵図には、大門には薬医門が描かれない。しかし、文久年間までに、善徳寺では伽藍配置の変更により三ヶ所、門が取り払われたり建て替えが見られる。
万福寺の山門は、かつての善徳寺山門と言われるから、宝暦年間絵図は、宝暦年間より新しい絵図であろうと思われる。


太鼓堂は、宝暦年間まで善徳寺中央にあって、鐘楼門として用いられていたことがわかる。
鐘楼門は江戸時代に出現したものとされているが、このような形態の門は、奈良県田原本町にある、淨照寺山門と風格が類似する。
この淨照寺山門は、伏見桃山城より移築されたものと伝えられ、善徳寺太鼓堂も室町・桃山風建築の流れを汲むものか。
ただ、鐘楼門としては、今一つ小振りである。
これが、文久年間までに、入り組んだ食違いの虎口状の薬医門を取り払い、ここを埋め立てて拡張し、現在の形に変更した。
そして、ここにあった薬医門の替わりに長屋門を建築し、太鼓堂はその北に移設されていることがわかる。
本堂は坪数302坪、13年の歳月を費やし、宝暦9年(1759)8月に上棟式を行った。宝暦年間絵図には、この本堂の南側に、「蓮師堂」と書かれた堂があったことがわかる。
この御堂は、善徳寺開祖、蓮如上人を祭るものであったという。
後に述べるが、本願寺の伽藍配置から推測すると、これは御影堂に相当する建物であろう。この後方に経蔵があった。
本堂の北側に慶長九年(1604)前田利長を迎えたという、大納言の間と呼ばれる桃山時代風格を残す御殿がある。

この御殿は、雨漏りで痛みがひどいが、絵図を見るとこの建物は、庫裏の後方に独立して建てられていたようである。
長屋門から入る庫裏(台所)は、本堂の再建に併せて、宝暦以前の庫裏よりもふた回りほど大規模に立て替えられたという。
しかし建物は北にやや傾く。この北側は、宝暦年間には石垣で囲まれているが、どうも本来地山ではなく、善徳寺を拡張する際、地盛りされているようである。現在庫裏の台所に入るとおおとがの木が展示されている。
これは、元は大納言の間の庭にあったものという。

やや北に傾いた庫裏

庫裏入り口のおおとがの木
鐘楼は、天明元年(1781)の上棟式で、これ以前の鐘楼は、小矢部市島にある乗永寺に移された。
善徳寺の建造物は、北側に更に御殿が増築され、現在の構造となったが、江戸初期の当初の建造物は、極めて簡素な建造物であったことが伺える。
元明年間以前の鐘楼

現在の鐘楼
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本願寺の伽藍配置
寺内町寺院は、東向きの伽藍配置を特徴としていたが、これは善徳寺にも当てはまる。 『宝暦年間城端御坊全景図』によれば、善徳寺はその全周を石垣で囲まれ、東面する、中世からの善徳寺の伽藍配置が把握できる。
この伽藍配置の特徴について、永禄期の善徳寺を検討するために、本願寺の伽藍の特徴として、代表的な寺院の伽藍には、方向性の特徴のあることについて考えてみよう。
たとえば、京都の西本願寺や東本願寺は東向きである。富山県でも、善徳寺や高岡の勝興寺は東向きに伽藍が配置されている。
寺院の伽藍配置は南向きが原則で、浄土真宗、専修寺派の本山、三重県一身田の専修寺の伽藍は南向きである。
ところが、東向きの伽藍配置は東西本願寺派寺院に共通するものである。
このように本願寺の寺院が東を向く事例は昭和の初期、『仏教考古学講座』でも取り上げられている。昭和11年、京都帝国大学講師、藤原義一氏は、『浄土真宗の寺院建築』の中で、これは古代からの「西方浄土」の阿弥陀信仰が背景にあり、寺院が東に向きを変えたのは江戸の始めであったとしている。その理由として、西本願寺も火災で焼けて元和年間に再建するまでは南向きであったことを根拠としている。
そして、奈良浄瑠璃寺の阿弥陀堂は東向きであることから、阿弥陀仏は西方にあり、伽藍の方向性は、西方浄土の思想から発生したとしている。
浄土真宗寺院の伽藍の方向性を見ると、確かに加賀一向一揆の拠点寺院は、その多くは南向きに伽藍が建立されていることがわかる。
加賀三ヵ寺の一つ、若松本泉寺は金沢市の調査資料と現地を実見する限り、南向きに建立されていた可能性が強い。
また、山田光教寺の伽藍配置は、土塁が街道に面する南側にあり、この位置から、本堂は南向きであったと思われる。
波佐谷松岡寺は、波佐谷に遺構が残るが伽藍配置は不明であるただ、松岡寺は全体遺構の西側に伽藍が確認でき、伽藍は東を向いていた可能性が大きい。
享禄の錯乱によって、能登松波に伽藍を移した波佐谷山松岡寺の伽藍は東向きである。
このように中世の真宗寺院には、東向きの伽藍配置が確認できないが、はたして一向宗寺院の伽藍配置は、江戸初期に一斉に沸き起こった思想なのであろうか。
先に述べたように、浄土真宗の伽藍配置は、向かって左側に聖徳太子を祭る御影堂があり、右側に阿弥陀如来を安置した法則性があることが知られている。このような伽藍配置は山科本願寺の記録で確認できる。文明三年(1471)、蓮如は越前吉崎に吉崎御坊を建設する。吉崎御坊は、一段高い丘陵地に道場を建設し、これから東側に段々と門徒の多屋が広がっていた。
文明七年(一四七五)、吉崎を退去した蓮如は畿内を転々と布教しつつ、山科に一向宗の中心となる道場を建設した。
これが山科本願寺で、文明10年(1478)、蓮如が京都市山科区に築いた寺内町である。
現在でも、御本寺を中心とする一角には、巨大な近世城郭を連想させる土塁が確認できる。
山科本願寺は、残存する遺構から、その構造は、中心に御本寺の御影堂や阿弥陀堂が東向きに建設され、内寺内には、一家衆や坊官の居住区があり、外寺内には、八町があって、商人の町屋が広がっていた。
山科本願寺の発掘速報展が、平成9年(1997)12月から約2ヶ月、京都市考古資料館で開催された。
ここでは、土塁を中心に発掘調査が行われたが、山科本願寺の遺跡は、南北一キロメートル、東西0.8キロメートルあり、寺域は八十ヘクタールに及ぶ。

堀の幅は、広い部分で幅9メートル。深さ3.7メートル。土塁は高さ6メートル。基底幅12メートルで、土塁の築き方は、土塁基底部を盛り上げた後、内側から順番に斜面を造りながら築く、古代の版築法とは異なる築き方であった。
また、土塁上面から堀底までの高低差が7.5メートルあるという、まさに巨大な城郭であった。
天文元年(1532)山科本願寺は延暦寺や法華衆徒によって攻略され、一向宗はその本拠を摂津の石山本願寺に移した。
石山本願寺の寺内は現在の大阪城内であると推定され、石山寺内町は、御坊と町屋から成り立っていた。
町は西町や北町など六町で、各町は町衆によって統率され、幕府に対して諸公事免許等の特権を獲得し、宗教自治都市を形成していた。
石山本願寺の伽藍配置は、東に石山御坊の区画があり、それを取り巻くように町屋が存在したものと考えられ、恐らく、石山本願寺の伽藍は東向きに築かれていたものと推定される。
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