▼参考資料
城端城址
城端城は、江戸時代の天保年間、石黒信由によって『三州測量図籍』に記録されています。
資料画像1
資料画像2
その場所は、現在の曳山会館付近に相当します。
しかしそこは余りにも狭いのです。本サイトでは、恐らくここに遺構が一部残存していたものと推定し、南東に城郭の広がりを指摘しています。
参考資料
城端城は、寛政13年(1801)、加賀の大学者、富田景周によって、その概要が明らかにされています。
「城址は、城端町の南也」
これは、城址は善徳寺が城端町の中心として、その南側にあったと考えられます。
「遺跡今間敷不得測」
城址は、その規模を測定することが出来ないとしています。
「城端入口を出丸とし」
城端の入口には出丸を築いたと、この頃も呼ばれていました。
「背ろは山際より野に接して所々断切あり」
これについては、二通りの解釈が考えられます。
1・城端は丘陵地にあり、この丘から下の平地に降りるところに。空堀が見られる。
2・城端町の南の丘陵地から町にかけて空堀が見られる。
「深田あり」
これは、城址の付近に沼状の田んぼが見られることをいいます。
「東北西は一段低く」
この表現は、城址の主郭の周囲では、一段、つまり1から2メートル程度、低い地形が見られるということです。
「今為田畑」
城跡は田畑になっています。
「東西に流水を帯ぶと云ふ」
城の東西を水が流れています。これは、山田川や池川ではありません。
城端町の現況や古絵図を見ると、恐らく東は、大工町から東上・西上に流れる水路で、西は善徳寺門前を流れる川を指しているようです。
▲ページトップへ戻る
|