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善 徳 寺 の 活 躍 元亀元年9九月、本願寺顕如は、諸国の門徒に檄文を送り、大坂・石山本願寺で挙兵した。 織田信長との合戦に、城端善徳寺は、「全山上げて馳せ赴くべき」として、空勝以下、不惜身命の活躍をした。 越中東部に位置する新川郡・太田郷では
らが、門徒を率いて織田信長と大坂・石山本願寺との合戦に従軍したという。 『玉永寺史』によると、弓庄では「一向宗徒大岩組150人の参戦」があったようで、上市町郷柿沢西養寺には、本願寺顕如の大坂加勢に対する感状が残っているとされる。 和議が成立して後、天正10年3月、教如上人は五箇山にあったが密かに善徳寺に下向した。 善徳寺滞在中上人は空勝を膝元に呼び、長年の善徳寺の支援に感謝し、10年来の合戦の顛末を語り、「誠に有転転変のこの世の中に、変わらぬものは阿弥陀如来のご慈悲ぞかし」と昔をしのび手今を思い、感涙にむせばれたいう。 この話は、25歳という若くして没した大谷貞子姫の威徳をしのんで、大正9年に刊行された『輝く信徳』から引用しているが、本が書かれた当時、「御逗留の室は、今なお当院に存在し。ております。」とある。 善徳寺の伽藍は創建以来火災や戦火にあっていない。教如上人が滞在されたのは果たしてどの部屋なのだろうか。興味は尽きない。
虫干法会に開かれる恒例の「東西砺波盤持大会風景 |