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 善 徳 寺 の 活 躍

   元亀元年9九月、本願寺顕如は、諸国の門徒に檄文を送り、大坂・石山本願寺で挙兵した。

織田信長との合戦に、城端善徳寺は、「全山上げて馳せ赴くべき」として、空勝以下、不惜身命の活躍をした。

越中東部に位置する新川郡・太田郷では

   新名専立寺法順
  
三室荒屋善照寺乗信
  
大浦真成寺慶乗   (元亀三年参陣・天正五年八月十日討死)
  
善名長栄寺津立   (高瀬三太夫信房)
 

らが、門徒を率いて織田信長と大坂・石山本願寺との合戦に従軍したという。
これらの寺院は自ら大坂に赴きその功厚く、天正13年、新名専立寺法順が没したとき、本願寺顕如から丁重な書状を頂いる。

『玉永寺史』によると、弓庄では「一向宗徒大岩組150人の参戦」があったようで、上市町郷柿沢西養寺には、本願寺顕如の大坂加勢に対する感状が残っているとされる。また、辻ヶ堂照蓮寺は、兵糧米一石七斗五升を本願寺に運び入れて家老、下間頼廉の感状を得ている。五百石の専徳寺には、旗印としたという「矢疵の名号」が残っていると言われる。越中門徒は、物心共に本願寺を強力に支援していたのであろう。

 和議が成立して後、天正10年3月、教如上人は五箇山にあったが密かに善徳寺に下向した。

 善徳寺滞在中上人は空勝を膝元に呼び、長年の善徳寺の支援に感謝し、10年来の合戦の顛末を語り、「誠に有転転変のこの世の中に、変わらぬものは阿弥陀如来のご慈悲ぞかし」と昔をしのび手今を思い、感涙にむせばれたいう。

この話は、25歳という若くして没した大谷貞子姫の威徳をしのんで、大正9年に刊行された『輝く信徳』から引用しているが、本が書かれた当時、「御逗留の室は、今なお当院に存在し。ております。」とある。

善徳寺の伽藍は創建以来火災や戦火にあっていない。教如上人が滞在されたのは果たしてどの部屋なのだろうか。興味は尽きない。

 

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