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宣教師・フロイスの見た石山本願寺

フロイス一行は、瀬戸内海を航海し、永禄八年(1565)一月下旬、堺についた。

そして都に向かうため、堺から3里たった大坂への道をたどった。そこは石山本願寺が築かれ、本願寺11世顕如が大名に匹敵する権力を握っていた。この当時、大坂は全国でもっとも裕福でかつ威力を持った宗教都市でありまた城塞都市でもあった。そしてこの頃の一向宗は、キリシタンの恐るべき敵でもあった。

大坂で一行は裕福な家に投宿した。この家主は信心深く家には20本程の燈明のついた阿弥陀仏の祭壇を持っていた。一行が就寝したあと、この家の近くで火災が発生し九百戸もの家が焼け、百人余りの焼死者が出る大火となった。この火災で華麗な大寺院であった本願寺や御殿、城も焼けてしまった。多くの人は小高い丘に避難し夜明けを待った。

顕如には敵が多く、外敵の侵入を恐れて各地に門を築き守備兵を置いていた。一行が火災で宿を追われ、伴天連が見張り兵に出会うと危険であり困窮していると、堺までの船便で同船し大坂で世帯を持っている商人に偶然出会った。

仏教徒であるこの商人は「拙者宅は城の真向かいにあり人通りも多いが、拙者に助けを求めている以上、市街から脱出の手段が見つかるまでお助けしよう。」と申し出た。一行は、はしごで登る平素は荷物を入れる屋根の低い狭い二階に隠れた。

顕如は、この火災は敵が仕組んだものと確信し、あらゆる城門に多くの守備兵を置いていたが、更に市中に他国者を自宅に匿うと死罪にすると厳しい布告を二.三度出していた。そして武装した家臣達が焼け残った家宅を捜索して廻っていた。

商人宅にも武装兵が立ち寄ったが、この地でも著名な商人である家主は、「刀の柄に手をかけてあやしい者が来ぬか見張っているので心配ご無用」と追い返した。その夜は特に警戒が厳重で、家主の前には二百名もの銃を持った見張り兵がいた。

商人の妻は之を恐れ、主人に明朝までに伴天連の立ち退きを要求したが、夫はこれを諫めた。

三日経って警戒が緩んできた。ある水曜日の朝、折から寒さが厳しかったので一行たちに一種の屑糸の頭巾である綿帽子を深くかぶらせ、商人の衣装をさせて、城門の警備兵が多い中を進んで行き大坂の町から脱出した。京に着いたのが二月一日であった。

「完訳 フロイス日本史」参照